警察に反抗した女友達が原因で、なぜか鉄の手すりと手を繋いでいる自分。大学の先生も余計な事を彼女に教えてくれたものだ。暴れてもいない人間を押さえつけて、手錠なんて掛けちゃったものだから、警察も引くに引けなくなってしまっているのがよく分かる。
繋がれた右手は宙に浮いているので、かなり疲れて来た。20分程経っただろうか、確か、指紋と写真を撮られたと思うが、その後の記憶の方が強く、よく覚えていない。
とにかく、またどこか他の場所に連れて行かれた。壁は相変わらずコンクリートブロックで、短かく狭い廊下の先に一つ机があり、そこに黒人の警官が一人。左の壁には公衆電話。廊下はその机がある所から90度右に曲がって、まだ奥がある様だったが、その先は見えない。
まず、手錠を外された。
”所持品を全てこの袋に入れろ。ベルトをしていたら取れ。何か紐状の物は持っていないか?”
財布、時計、ベルトを、何やら数字が書いてある半透明の袋に入れた。
”くつ紐があるだろ、くつ紐が!”
”あ、これも取るんですね・・・”
で、この作業は何のために? と思いながらも言われた通りに従った。
確かその時だと思う、右手の甲に黒いマジックで、袋に書かれている物と同じ番号を書かれた。
”827"
”会員番号827番、ウチダ ヒロキです。特技はケン玉です。ガンバリますので、皆さん応援してください。”
何ていうおふざけは、実は全く考える余裕はなかった。
”お前には一回だけ電話を掛ける権利がある。掛けたければ、そこの公衆電話から掛けろ。”
おぉ、これで外とつながる!
実はこの1週間前に新しいアパートに引っ越し、同じ学部の大学院に通っていたアメリカ人のベンと、韓国人のジンと一緒に住みだしていた。そうだ、いつも遅くまで起きているジンに電話して、何が起こっているか伝えておこう。警察署の外で待っているに違いない山崎が、もし家に電話をして来たら、ジンから山崎に説明しておいてもらえる。
少しホッとしながら壁に取り付けられている公衆電話へ向かった。確かお金を入れずに電話が掛けれたと思う。受話器を持ち、ボタンを押そうと思ったが、しまった、引っ越したばかりで新しい電話番号を覚えていない。紙に書いた物を財布に入れてあったので、
”あのー、実は引っ越したばかりで番号を覚えていないので、財布の中にある紙を見たいんですけど。”
”何?財布?もう係りの人間が持って行ったからここにはない。”
”でも、それがないと番号が分からないんですけど。”
”Too bad. (それは残念だな)"
Too bad って、おい。人の税金で飯食ってるくせに、それはないだろ!と心の中で叫び、意気消沈。チーン。受話器を置いた時の音も、チーン。
”どうするんだ、掛けるのか、掛けないのか?”
当時は、今みたいに携帯がそこまで普及していなかったので、電話番号を知りたい時は、家にあるアドレス帳などを見るしかなかった。他に覚えている番号もなく、結局、外と連絡を取る事を諦めざるをえなかった。
”掛けないならこっちに来い。”
黒人警官が廊下の先の、右90度に曲がった先を指さす。
言われるがまま恐る恐る角まで来て、回れ右、をするとまた廊下が暫く続いていた。ただ、今までの廊下とは何かが違う。左側の壁は今まで通りコンクリートブロックなのだが、右側の壁が・・・
檻
(猛獣や罪人が逃げないように入れておく、鉄格子などを使った頑丈な囲い、または室。)
Yahoo Japan 辞書より引用
これは、つまり、留置所?
”ガチャガチャ、ギ~。 入れ。”
ご丁寧にドアを開けてもらったその部屋は、8畳程の大きさで、床も含め全て灰色のコンクリートに覆われ、ステンレス製のベッドが一つと、何の囲いも無いむき出しのステンレスのトイレが一つ。
(スケッチを書いてみた。)
逃げる訳にも行かないので、言われるがままゆっくりと中に入った。
”ガシーン!”
という音と共に、背後で鉄のドアが閉まり、コツン、コツンと警官が立ち去る足音。
さて、問題だったのは、トイレが汚かった事やベッドが固そうだった事ではない。柵の下の方が少し錆びた感じになっていた事でもなければ、壁の端が少々欠けていた事でもない。
問題だったのは、
その部屋には既に10人程の先客がいた事だった・・・
奥の壁に気だるそうにもたれかかる、南米からいらしたらしき方々。部屋の中央にお座りになられている黒人さん達。そして極めつけは、今でも忘れない、ベッドの上を一人で堂々と占領し、ひざを立ててどっしりとお座りになられている、体中タトゥーだらけのどう見てもこの部屋の ”主” の様な方と、そのすぐ下に主のサポート役としてお座りになられている、どこから見ても悪そうな、助さん、角さん。
そう、そこは犯罪者のたまり場、雑居房だった。
前方の全ての角度から送られる鋭い視線が、閉められたドアの前に立ち尽くす僕に グサグサ と突き刺さる。固い地面に ズリッ と誰かの靴底が擦れ、スチールのベットが ガシッ と音を立てる。ヒソヒソ と聞こえる誰かのスペイン語と、意味が分からない チッ という舌打ち。
ただ事ではない緊迫感。
体は硬直していたが、必死に動かした脳で本気で思った。
”主に、きちんとご挨拶した方が良いのだろうか???”
この場で、ニコッとするのもおかしいし、ふてくされた様な態度をとるのも危険に思える。こういう時人間は、”素” 又は ”無” になるのが一番良いと、この時学んだ。
取り敢えず、皆さんから少し離れた所に小さく空いていた柵と壁の角に体育座り。
世間を知らない健気で未熟な23歳のアジア人を、思いっきり演じる事にした。
しかし、どう頑張っても、何かの間違いで捕えられてしまった、可愛そうな可愛い小さな男の子には見えない。184センチの身長を、この時ほど恨んだ事は無い。
コンクリートの床の冷たさが、ジーンズを通して伝わって来る。時々そっと足を延ばしては、柵の外を眺める。鉄の棒が15センチ間隔程で続く柵。その鉄の棒は直径4センチ程。そのたった4センチの向こう側には、さっきまでいた廊下。
そっと手を出して廊下の床に触れてみる。普通に触れた。
でも、手が届くその場所に、自分は行く事が出来ない。
目の前にあるその場所はまだ警察署内で、決して自由な場所ではない事は知っているが、そこへすら行けない。
この事を認識してしまった時、ベットの上の主など比にならない程の不安と恐怖を感じた。
”考えちゃダメだ。とにかく、何か他の事を考えないと。”
初めて味わった特殊な不安感。
柵の外を見ない様に、目を閉じた。
時計は無い。
時間の流れは、だんだんと痛くなる足や腰と、体の冷え具合で感じた。
一体どれ位経っただろうか、柵の外に一人の警察官が来た。
”O...Ochaida(オチャイダ)はどいつだ?”
誰も答えない。
”827. ナンバー827, オチャイダ。いるか?”
皆自分の右腕を見る。
ん? 8.2.7?
あ、自分だ。
”Yes, here."
”出ろ。”
え?出してくれるの?マジで!?
この柵の外に出してくれるなら、ウチャイダ だろうが オチャイダ だろうが、ど~ぞお好きに呼んでください。でも、何か尋問とかされて、終わったらまた戻されるかも知れないという不安があり、まだ警戒心は持っていた。
そのままその警官に付き添われ、今までとは違う雰囲気の、黒いタイルが貼られた白い壁の廊下を歩き、大きな階段に出た。その階段の下の部屋の右側には窓口が幾つかあり、その一つには電気がついている。左側には少し開いた両開きの木製のドアが。階段を降りていると、生ぬるい風を感じた。春と秋がとても短いシカゴでは、6月ともなると夏になる。
外の空気!
”あそこの窓口で、預けた物を返して貰いなさい。”
”え? 帰って良いんですか?”
”そうだ。”
”家に?”
”柵の中に戻りたいのか?”
”めっそうも御座いません!”
この時は、かなり嬉しかった。やっぱり間違いだったとか言って呼び止められたら、たまったもんじゃない。所持品を袋のまま受け取り、その場で指で強引に開くと、取り敢えずベルトをし、くつ紐と財布をポケットにつっこみ、腕時計をしながらそそくさと外へ続くドアへと向かった。
自由だー!!!。外に出てしまえばこっちのもの。さっきまでの経験を、余裕ぶっこいて笑い話にして皆に話してやるぜ~!
”お勤め、ご苦労様でした。”
”お迎え、ご苦労。”
なんてところかな!
山崎~~~!
や~ま~ざ~き~~~!
や~ま・ざ・き・・・くん???
え?
シ~~~~~ン
山崎どころか、猫一匹いない。時計を見ると午前5時前。
真っ暗。そして、ここは、
どこ?
笑い話にするつもりが、まだ続くかこの悲劇。
電気のついていない民家が並ぶ暗い道の上で、俗に言う、右も左も分からないという状態。一難去って、また一難。帰れない。警察もひどい。こんな時間にシカゴの訳も分からない場所にほっぽり出して、強盗にでも遭ったらどうするつもりなんだ?檻の中とは違う不安を感じながら、歩けば大通りに出るだろうと思い、とにかく歩き出した。しかし、歩いても歩いても大通りが出てこない。暗い住宅地の道を、周囲を警戒しながらとにかく歩き続けた。
暫くすると一台のタクシーがこちらに走って来た。喜んで手を上げる僕と、ギョっとする運転手。
運よく止まってくれた。
”え~っと、ベルモントっていう道、分かりますか?取り敢えず、ミシガン湖に出て貰えますか?”
”あぁ、OK。それはいいけど、こんな時間にこんな所で何してるんだい?酔っぱらってたのか?”
さっきまで留置所にいました等と言うと、犯罪者だと思われて怖がられても困るので、友達の家に行っていた事にした。シカゴはミシガン湖のすぐ横に位置するので、東の端は必ず湖。とにかく湖に出てもらえれば、後はどうにかなる。取り敢えず家には帰れたが、自分がどこにいたかは、今でも分からない。
日が高くなった頃、山崎から電話があった。
”おい!こら!普通警察署の前で待っててくれたりするだろ!?”
”いや、そうしたかったんだけど、警官に、”帰れ。お前、酒飲んでるだろ。飲酒運転でお前も捕まえるぞ!”って言われてさー。やっぱり自分の身を守らないとさー。” (当時のイリノイ州は、今程飲酒運転に対する規制が厳しくなかった)
3年前に、日本で7年ぶりに山崎と再開した時、またこの話で盛り上がった。
結局、その後分かった罪名は、Gang Loitering (ギャング・ロイタリング)という物で、夜中に集団で騒ぎ、警官にたてついた事に対する罪らしい。まぁ、騒いでいたのは一人の女の子だけなんだけど。アメリカでは全て裁判所で完結するので、その後、裁判所に呼ばれた。他の犯罪者と一緒に3時間程、法廷内のベンチで名前が呼ばれるのを待ち、やっと自分の名前が呼ばれて裁判官の前に行くと、隣にあの時の手錠を掛けた警察官が現れた。
裁判官:しばし書状を黙読。
で、
”何か言いたいことはありますか?” と僕に。
”Me? No, I don't."
裁判官:”Dismissed.(解散)"
警察官: スタスタスタ。
え~?それだけ~?
実際、犯罪の多かったシカゴでは、この程度の事は何でもない事で、警察官の少々横暴にも思えた態度も、自衛の為には必要不可欠だったのかも知れない。まぁ、決して自慢出来る話ではないが、珍しい体験をしたので今回書いてみた。もちろん、後にも先にも、留置所に入れられたのはこの時だけ。
(In case you are wondering, this is a photo from 1995, so no worry.)
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