2008年8月30日土曜日

始めの一歩

最近ある学生の方からインタビューを受けた。その中で
「なぜインテリアデザイナーになろうと思われたのですか。」
と質問され、アメリカに来た時の事を思い出した。

渡米を決意したのは高校が進学校だったため、皆受験勉強を嫌々やっていて、自分もその中に入るのが嫌だったから。また、学校の名前で将来が決まるような風潮も好きではなかった。
「何か皆と違う事をしたい。どうせ一度しか生きれないんだから。自分の前にある道を歩むのではなく、自分の後ろに道を作りたい。」
高校生の時分、悪友達と朝までよく語った。今考えるとちょっと恥ずかしくなる程熱い時期だった。

その3年程前から、僕の母親はシカゴと横浜を3ヶ月ごとに行ったり来たりする生活をしていた。
その影響もあり、アメリカに行こうと思った。が大学に進学する予定はなかった。
「今は何をしていても食べて行ける。コンビニでバイトしていたって、お金はちゃんと貰える。パン屋ででも働きながら、アメリカ中を回ってみようか。」
というのが目先のプランで、その先は何も考えていなかった。なぜパン屋だったのかは覚えていないし、当時はパン屋が仕込などで朝早くから働く大変な仕事と言う事すら知らなかった...。

1991年5月6日、友達と成田で涙の別れをし、日本を離れた。
「負けるなよー!」
と空港で大声で叫んでくれた友達は、今は行方不明・・・。今頃どこかで自分を励ましているのかも知れない。

同日、シカゴのオヘア空港に到着した。シカゴから車で南に3時間。ユニバーシティー・オブ・イリノイ(イリノイ州立大学)を中心としたアーバナ・シャンペーンという小さな町がある (http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Champaign_Aerial_Oct2007.jpg)。親元にいてはアメリカに来た意味が無かったので、一人になる為、そこにある英語学校に通う事を決めていた。日差しが強くなりだした6月の昼過ぎ、尾崎豊を聞きながら車を走らせ、シャンペーンまでの3時間、真平らな地平線を見ながら車の中でなぜかガッツポーズをしていたのを覚えている・・・。勢いで飛び出したものの、この先どうなるのか分からない。不安と期待が入り混じり、恐怖心もあったがなぜかそれが心地良くも感じられた。

地図を見ながら学校の寮までたどり着いたが、受付で何と言ってよいか分からず車の中で15分程ドキドキしながら考えた。
「通じなかったらどうしよう・・・」「質問されて分からなかったらどうしよう・・・」
日本人の英語を話す時の悪い癖、‘完ぺき主義‘ が僕に車のドアを開けさせるのを拒んだ。
「よし!」
と意を決して車を降り、受付に着いた。そこには身長2メートルの白人の男がいて、身の丈184cmの僕を見下ろしながら
"May I help you?"と尋ねてきた。
(来た!早速、質問文!次に喋るのはこっちの番!あまり時間を空けると喋れない事がばれて、この先の会話が成り立たなくなる。)今考えると面白い考え方をしたものだ。

取り敢えず車の中で必死に考えた今でも印象深い一文を。

"I..will live here."

するとその男は
"You will live here? Oh, are you new? What is your {\;''."\]['/>¥(@@)¥(**)~!(--)・*****・~~=}}{*}・・・・・(~~ )・xxxxx**+‘:。。:::・・・*}{{==・・ :p "

後は全く覚えていない・・・殆ど仮死状態だったと思う。

後に仲良くなったこの2メートルの男の名前はジェイソン。彼は古い2ドアーの日本車のスポーツカーに乗っており、一度路上で見かけた時、彼の頭が後部座席の窓の横に見えたのを覚えている。寝るようにして運転していた。

それでも何とか事を済ませ部屋に入れた。
夕方5時、車でマクドナルドのドライブスルーに夕飯を買いに行った。

"How can I help you?"
(来た、質問文!でも、ここは商品名を言えば良いだけ。いける!)

"Big Mac please."

(どうだ、参ったか!さっさと飯をよこせ!俺は腹が減ってるんだ!)
と意気込んでいると、目にも楽しい色鮮やかなメニューボードの中心のスピーカーから流れるお姉さんの無情の声...

"Excuse me? (なんて?)"

「ゲ・・・・・・・・・・・・・まじで!・・・通じない・・・・・・」

この田舎町の人たちは、アジア人の英語の発音になど慣れていない。
"B...Big..Mac...Please...
"Oh, O.K. Would you like something to drink? (あーはいはい。飲み物は?)"

今度はこっちが
"Excuse me?"

お姉さんの溜息がマイクを通して拡張され・・・。
"D.r.i.n.k?"

いくらなんでもそれは分かる。
"Yes! Coke!"
コマーシャルのキャッチフレーズの様に返事をすると、ブチッという音と共にスピーカーの向うのお姉さんの気配は消えた。
取り敢えず車を前に進ませ、小さな窓ごしに紙袋と紙幣を交換した。

寮の前に戻るころ、木々の陰は薄くなり、空はゆっくりと一人の夜の訪れを告げ始めていた。


と、前置きが長くなったが、ここまではアメリカに渡った人達の多くは皆経験すること。特にアジア人の少ないシカゴを含む中西部や南部に行った人は、似たような経験をしているだろう。

長くなったので、続きはまた今度。

Hiroki

2008年8月22日金曜日

ある日の after 5

昨日は午後から立て続けにミーティングだった。

最後のミーティングが終わったのは午後5時前。そしてここはSanta Monica・・・

「よし、今日はもうご飯でも食べに行こうか!」と内田さん。

「やったー!」と私。

そして到着したのは"Cheesecake Factory".

名前はよく聞いていたけれど、行くのが初めてだった私は

「ディナーにスウィーツ?」と思いながら入店。

入店後すぐに、ただのケーキ屋さんでないことを認識。みんなおいしそうなディナーを食べてる食べてる。

そして、隣に座っていたおじさんがすごいものを食べていたので、つられてオーダーしたのがこれ。

てんこ盛りのから揚げ。もちろんこれだけじゃない。野菜も食べないと!と、ブルーチーズ入りのサラダ。
おいしい食べ物と、

すがすがしい眺め。・・・あ、向いには素敵な上司。

こんな贅沢な平日があっていいのかしら。明日も元気に働こう。

それにしても、内田さんに不意に撮られた写真なのにこの大満足気な顔には自分も驚いた。

頑張って食べたから揚げ。残りは次の日のランチということで、今それを食べながらブログを書いている。

なぜか、食べ物の記事担当にさせられている。

Tomoe

2008年8月20日水曜日

昔の写真

今日、ある記事を読んでいたら、1996年の日付がついていた。
1996年というのは、ついこの前だと思っていたら、既に12年も前のこと。



そう言えば、アメリカに来て5年経ったその年、ウィスコンシン州立大学のプログラムに参加し、3ヶ月間だけだがパリで建築を学んだ事があった。オフィスに当時の写真があったので引っ張り出したところ、


”え~すご~い!”と皆が寄ってきた。


お、自分の行った事の無い場所に興味を持ってるな。よしよし、何にでも興味を持つのは良い事だ。


と思っていたら


”内田さんがわか~い。”


・・・・


更にえりかさんが


”何かへ~ん”


と言って大笑いを始めた・・・



自分の机に戻り、携帯電話のスケジュール帳の明日の欄を開いて


「9:00AM 全員解雇」 。
冗談はさておき、何枚か紹介してみる。
当時教会建築や著名な建築家の作品を毎日のように見せられ、少々疲れていた。
建築とは何か?デザインとは何か?
建造物の根源の様な物が見たくなり、イギリスのストーンヘンジへ向った。どの様に作られたのか謎で、どこからこれらの石が来たのかも分かっていない。もしかしたら宇宙人が何かの印として作った物なのかも、とワクワクしながら駅で降りると、そこからストーンヘンジがある野原へ続くトンネルの壁にとても大きな壁画でどこから、どの様にして、どの川を通って運ばれてきた石か、3歳児でも分かる絵で説明されていた・・・。大変ショックだったのを今でも覚えている。




この写真はモネが住んでいた家の庭にある睡蓮の池。この池を彼は描いたと伝えられている。




名前は忘れたが、ドイツの教会のエンジェル。姿勢から、このエンジェルの清らかさが伝わってきた。



ロダンミュージアムの地獄の門。この写真は扉の下から上を見上げて撮った物。彫刻が飛び出しており、ドア全体で物を語っている。

色々な物が簡素化され、情緒と言うものが省略されてきている今日、この様な物に時々触れる事の大切さを個人的には感じる。
Hiroki

2008年8月14日木曜日

日本帰国 その3: アメリカ帰国

1週間半に渡った日本滞在も本日で最後。今は成田空港のJALのラウンジでこれを書いている。
今回の帰国で、今まで見落としていた面白い日本を改めて発見でき、今後日本でのプロジェクトに参加して行きたいと思うようになった。特に東京は雑多で面白い。デザイン面では、レストラン一つにしてもきちんとデザインされており、店のデザインでお客を呼び込むという事をきちんと考えている。施工もとても良い。そして、何より食べ物が日本人の口に合うように研究されており、何を食べても美味しい。これらが重なり合う事により、店としての高い完成度を実現している。
今回の写真は、東京から成田空港に向う途中で撮った車窓から見た風景とそのコラージュ。





そろそろ搭乗らしい。
Hiroki

2008年8月10日日曜日

日本帰国 その2

今回も日本からの報告。この帰国中に特に気がついたことは、
1:食べ物が何を食べても美味しい上に、値段も納得できる値段。
2:レストラン、店舗など、とにかく身体障害者を無視した作りになっている。
3:暗い感じの店が多い。

あとは、帰国の度に思うのだが、ドアや天井が低い・・・。電車を下りる際に今回も頭をぶつけた。その後、何も無かったかの様に振舞うか、笑ってごまかすかいつも迷う。

また日本で色々と写真を撮ってみた。

SOMらしいデザインの東京ミッドタウン。オリジナリティーは感じない。他のSOMのプロジェクトからコピーした部分が多く見受けられる。
安藤忠雄作のミュージアム21-21。日本では珍しく施工が悪い。駅の時計。改めて見ると、とてもよいデザインだと思う。”National"の文字も良い。
集合住宅。
神社の境内にあった昔ながらの外灯。
民家の塀の上に置かれていたAngel
横浜中華街に行く途中の駅にて。オリンピックの開会日だった為に、中華街はガラガラだった。皆家でテレビを見ていたのだろう。

Hiroki

2008年8月7日木曜日

日本帰国 その1

1週間前から2年ぶりに日本に帰国している。日本人の多いLAに住んでいる今は、シカゴに住んでいた時と違い日本を遠くに感じない。
今この記事は、故郷の横浜にあるスターバックスで書いている。



遠くに感じないとは言え、改めてよく見ると面白いものを発見するのでカメラを手放せない。今回はそれを紹介してみる。






朝3時まで魚が食べたいと思った事は個人的には無い。



人が入らないようにしているのだろうけど、入ったら二度と出れない雰囲気。



そんな所に招かれても入れないってば・・・。



韓国人街の中に向かい合わせにあるソープランド。“Japanクラブ”と“英国屋”。港の町、横浜。


匂いで客を引き付ける。かなり大胆。



若い=青いとはっきり書いている。何も若者の気分を逆撫でしなくても・・・。


本当に“いい街”ならカメラはいらない。

未だあったか。コンドームの自動販売機。この猛暑の中、果たして品質は・・・?。

一番右の落書きの問題以前に、お父さんも娘もフニャフニャ。禁止して正解だと思う。

Hiroki

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