第2話
カヌレちゃん
「昨日、学校どうだった?新しいお友達出来た?先生優しそうだったじゃない。校舎もきれいだし、やっぱり引っ越してきて良かったと思わない?いいわよねー、ここ。そう思わない?じゃあ、お母さん先に出るから、鍵ちゃんと掛けてってね。この前電気つけっぱなしだったわよ。来年は中学生だし、もっとちゃんとしてね。」
・・・なんでこの人は毎朝自分が言いたいことばかり、ノンストップで私に投げつけるんだろう?
バタン、と玄関のドアが閉まると、家中の空気が止まった気がした。オレンジジュースって、灰色だったっけ?洗濯機の音か外の雨の音か分からないけど、どこかでずっと水が流れている音がする。
テーブルって、おっきい。
新しい場所って嫌い。小さい時から聞いていた近所の踏切の音も、何でもゆがんで見せてくれた電信柱の丸い鏡も、滑り降りたら鉄の匂いが手についちゃう公園の階段の手すりも無い。それに、知らない子たちの前で、私はどんな子になればいいの?誰になればいいの?
外に出て玄関のドアのカギをかけた時には、雨の音は小さくなっていた。
「いいや、傘。」
別に濡れても濡れなくてもどっちでもいい。バス通りまで来ると、車のタイヤに踏みつけられた水たまりから泥水が飛んで来て、お父さんが最後に買ってくれた赤い靴を汚した。
曲がり慣れない角を曲がると、ちょっと先にある学校の時計が7時45分を指していた。あと15分でチャイムが鳴る。田園調布って言うから、もっと田んぼだらけかと思ってたら、水たまりに映るのは建物ばかり。
急に吹いて来た風に押される様に目の前のお店のひさしの下に入ると、足元の大きな水溜りに木のドアが映った。そっと顔を上げてみると、白い壁と、ガラスの入った木のドア。ひさしの端っこから落ちて来た透明な雨粒がおでこにあたってから頬を伝った。
急に吹いて来た風に押される様に目の前のお店のひさしの下に入ると、足元の大きな水溜りに木のドアが映った。そっと顔を上げてみると、白い壁と、ガラスの入った木のドア。ひさしの端っこから落ちて来た透明な雨粒がおでこにあたってから頬を伝った。
「昨日もあったっけ、このお店?」
そっとガラスの中を覗いてみると、うすい白いカーテンの向こうで、お姉さんが一人何かを型に流し込んでいる。目の前の台の上には、色々なお菓子が沢山。丸いのや、貝の形をしているのや。
ふっと目を戻すと、さっきのお姉さんがいない。
「ねぇ、そんな所にいないでさ、中入ったら?」
ドキッとして声の方を向くと、半分だけ開いた木のドアをおさながら、あのお姉さんがこっちを見ている。
「来ないなら閉めちゃうよ。」
「でも、学校行かないと・・・」
「3、2、」
「え、でも!」
「い~ち~!」
バタン。
大きな木のテーブルにちょっと古っぽい木の床。窓際の白い螺旋階段と、濃いピンク色の天井。そして、外から見ていた時には気が付かなかった、お店中に広がる甘い香りが、まるで優しい霧の様に全てを包み込んでいる。
「こんなに・・・朝早くからおかし作ってるの?」
「そういう時もあるよ。」
「ふーん」
「昨日も前通ったよね。下向きながら。」
窓際の螺旋階段に座りながら、お姉さんはちょっと笑った。
「見てたの?」
「見てたよ。」
「そっか・・・」
「そうだよ。」
水で出来た靴の跡が、茶色い床の色をゆっくりと濃くして行く。
「ねー、お菓子好き?」
奥に見える出窓の前のテーブルの方に歩きながら、お姉さんが聞いた。
「・・・うん。」
「手出して。はい。」
ギュッと握っていた左手を緩めて広げると、お姉さんはその上にそっと茶色いお菓子を乗せてくれた。上から見ると花みたい。横から見ると、社会の教科書に出て来たヨーロッパの教会の柱みたい。
「なんて言うの、これ?」
「カヌレ」
「カヌル?」
「レ」
「カレル?」
自分の口に人差し指をあてながら、お姉さんが言った。
「いい、よく聞いて、カ・ヌ・レ。」
「聞いたことない。」
「そうみたいね。」
「食べれるの、これ?」
「毒入ってそう?」
「かたそう。」
「誰かさんみたいね。」
何言ってるんだろう、この人。
外側が茶色く焦げた聞いた事のないそのお菓子は、小さいくせにちょと重くて、堅そうで、てっぺんがお皿みたいにへこんでいる。
「食べてみなよ。」
恐る恐るゆっくりと、てっぺんから半分だけ口に入れて思いっきり力を入れて噛んでみると、あんなに堅そうに見えたのに、外側がカリッと割れた後フワッと柔らかい感触がして、甘いクリームの味が口の中で弾けてほっぺたを内側からくすぐった。
「どう?」
「あまい。」
「おいしいの、おいしくないの?」
「おいしい・・・」
「中身も堅かった?」
「やわらかかった。」
「誰かさんみたい。」
さっきも同じ事言ってた、この人。
「誰かさんって、誰?」
「堅い殻で一生懸命中身を守ろうとしている人みんな。」
「わたしも?」
「多分、あなたも、私も。」
なんとなくお姉さんが言っている事が分かった気がしたら、両目から小さな水滴が流れて、二つの濃い茶色い点を床に作った。
「わたしの中身って・・・なに?」
「なんだろうね。でも、本当は自分で分かってるんじゃない?ちなみに、そのカヌレの中身はお砂糖に入れた牛と鶏だよ。」
「お砂糖に入れた牛と鶏!!??」
びっくりして目を丸くしながら聞いた。
「フフッ。お砂糖を混ぜた牛乳と卵って事。」
二人で声を出して笑ったら、お店中の甘い香りが体の周りに集まって来て、履いていた濡れた赤い靴がほんの少しだけ軽くなった気がした。
「さ、学校行っといで!カヌレちゃん。」
「うん。行ってくる。」
残りの半分を口に入れ、両手で大きな木のドアをゆっくり押して外に出ると、学校の時計が見えた。
“7時45分”
「あれ・・・? ま、いいか。」
夜、晩御飯を食べた後、玄関で大切な赤い靴の汚れを綺麗にふいていると、エプロンで濡れた手を拭きながらお母さんが静かに言った。
「さ、もう遅いから寝なさい。」
夜のお母さんは、朝と違っていつも少し疲れた様に見える。
「うん。おやすみ。」
リビングの隣にある自分の部屋へ行き、全部閉めてしまうとちょっと寂しくなるから、いつもの様にドアを少しだけ開けたままベッドに入った。隙間から入って来たキッチンの細い灯りがカーペットを這って、本棚を登り、一番上の写真立てを照らしている。
「おやすみ、お父さん。」
今朝お菓子屋さんで貰った、覚えたてのお菓子の事を思い出しながらウトウトしかけた時、静かな家の中に小さな水の音が二つした。
ポタッ、ポタッ。
「お母さんも、カヌレちゃんだ・・・」
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