2008年9月4日木曜日

始めの一歩 2

さて、前回の続きで、なぜインテリアデザイナーになったかの話しを書こうと思う。

イリノイ州のアーバナ・シャンぺーンの英語学校で10ヶ月を過ごし、シカゴに戻ることにした。やはり大きな町に住みたかった。取り合えず母親の家に戻ったものの、とある事が原因で20歳の誕生日に色々ともめ、その日に家を出た。

成人になったその晩は、家から30分程はなれた安モーテルに一人で泊まり、年齢をごまかして買ったビールを飲みながら(アメリカでは成人は21歳)その時着ていた服のままで冷たいベッドに潜り込んだ。

シカゴに戻ってからは、ビザを保持するため郊外にある2年制の短大に通い、週3日は昼は日本のビデオ屋さんで働き、夜はカラオケスナックでレーザーディスクを交換しながら

”はい、有難う御座いましたぁ。次は田中さん、お願いしまーす・・・。”

とふてくされた声でやっていた。呼び方の発音が気に食わなかったのか、酔ったお客さんに

”お前な、ヒック* 水商売やってるんだから、もっと、ヒック* 楽しそうにかつれつ良くしゃべれ! ほら、”い”の発音してみろ、”い”だ、言ってみろ!”

などと、”い”の発音について色々とご伝授頂いた事もある。自分では水商売などと思っておらず、マスターがとても良い人だったので、頼まれてお手伝いしていたぐらいの気持ちでいた。
どちらにしても、気持ちのよい夜ではなかった。

ある晩いつも通りディスクを代え、休憩をしにバーカウンターの方に行くとマスターの知り合いだと言う年の頃27歳位の女の人がカクテルを飲んでいた。話を聞くと美術大学に通っていると言う。色々と話しをしているうちにその人が学校で経験している話しに自然とのめり込んだ。

もし大学に行くとしても、将来仕事をする時に潰しの利く経済学部か経営学部に入るかな、ぐらいに考えていた自分にとって、アートなどという将来何の足しになるか分からない物を教えてくれる学校に通うという選択肢はそれまで無かった。昔から絵を描いたり、部屋の模様替えなどが好きだった自分にとって何か新しい物が見えた気がした。

今は名前すら覚えていないその女性が通っていた学校が、1年半後に僕が通うことになった 
The School of The Art Institute of Chicago (SAIC)
という、とてつもなく長い名前の学校だ。
この学校はArt Institute of Chicago(シカゴ美術館)を所有する学校で、100年以上前は、今の美術館は学生用のギャラリーだった。その学校でインテリア・アーキテクチャー学部に入学した。

実際は、願書を送ったところ、色々と制限があり作品を20~30点見せなければならなかった上、入る際の英語のテストもピカソの歴史についての穴埋め問題などで、言葉が出来ても歴史の知識が無いと合格は出来なかった。バンドブームだった高校時代での選択は音楽だったため、もちろんそんな物は持ち合わせていない。と、言うことで2年制の短大でアートのクラスを取り始めた。

始めてみたらこれがまた面白い。毎晩窓の外が明るくなり始めるまで、家で宿題の絵を何枚も何枚も描いた。英語があまり話せなかった自分にとって、作品についての説明をする事は苦手だったが、絵や彫刻は自らそれを代行してくれた。自分の作る作品が最高のコミュニケーション・ツールとなった。

同時に取っていたアメリカ人向けの英語のクラスでは、"英語が話せないとばれるのが怖い”という思いからグループでの話し合い時も堂々と発言する事すら出来なく、自分の不甲斐無さに、帰りの車の中で、涙を流しながらハンドルに頭を打ち付けた時の事を今でも覚えている・・・。

(その時のショックで、カラオケバーで僕をアートの道に導いてくれた恩人のその女性の名前は忘れたに違いない。)

SAICに合格してからは、毎日家に帰るとまず買いだめしてあるチョコレートを口いっぱいほおばり、空腹をまぎらわした。食事を作る時間がもったいなかった。そして机に向かい、学校の課題に夜中過ぎまでとり組んだ。面白くて仕方なかった。大学3年の時は余りの楽しさに授業を取りすぎ、週に3日は徹夜をし、学校の廊下で毎日1~2時間程寝る、という生活を繰り返した。ある夜中に体から急に力が抜け、椅子から転げ落ちた時はさすがにこのままではいけないと思い、冷蔵庫まで這って行き生で食べれる物を口に押し込んだ。

その他の時は、学校の図書館で歴代のデザイナーや建築家の作品を眺めながら、ただただ

”カッコいいなー。こういう所に自分が住んだらどんな感じなんだろう?”と

妄想にふける日々。毎日違う本を借り、帰りのバスの中で読んだので、図書館のおじさんとはとても仲良くなれた。潰しの利かないこの勉強をして、将来才能が無いと分かったら一体どうすれば良いのだろう、と考えて眠れない時はよくあったが、朝起きると共にそれは毎回頭から消えた。走るバスの中から、朝日に照らされるミシガン湖を見ると、ただ ”絶対一番になってやる”としか思えなかった。何が”一番”かも分からないまま。

自分の興味のある勉強をするという事が、これ程楽しく、そしてそれが一人の人間の人生において、とても効率的な時間の過ごし方であると痛烈に思い知らされた。無駄も悪くない。でも、毎日走り続け、24時間気分的にも実質的にも充実していたあの状態は、若いから出来たとも言えるだろう。

お陰で学校からいくつか賞を頂いたり、卒業後は生徒を教える立場として学校に招いて頂けたり、他の学校からも講師として招かれたりしたので、学生が終った今でもとても馴染みの深い場所となっている。

長くなったが、要約すると、インテリアデザイナーになったきっかけは、昔から自分が持っていた性格と趣味を統合的に当てはめる事の出来る分野を見つけるきっかけに巡り合えた事。そして、”それが好きだ”とはっきり自分で分かった事だと思う。その原動力は僕の為に物凄い力を発揮してくれた。

SAICを卒業してから11年経った今でもデザインとは何か、アートとは何かと悩む時があるが、一つだけ分かっていることは、

”一人一人の人生そのものがアートである”

と言うこと。

その時代に生き、その時の社会から影響を受け、思い悩み、表現し、そして死んでゆく。

と言うこと。

Hiroki

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