2012年8月17日金曜日

靖国神社にて

8月5日、朝からにわか雨。この日の夜中の便で羽田からロサンゼルスに戻る予定になっていたが、午後12時に汐溜のホテルをチェックアウトしてから時間があったので、竹橋にある国立近代美術館を見に行く事にした。着いてみるとあいにくの休館日。小雨が降る中、北の丸公園を武道館に向けて歩き出した。

昔、爆風スランプが歌っていた ”大きなたまねぎ” は以外に小さく、正直あまり武道館には感銘を受けず、そのまま歩き続けると旧江戸城田安門に到着。重々しい鉄の金具には、”寛永13年” と刻み込まれている。大きな鉄の塊は、いつ見ても迫力がある。




歴史あるその門をくぐり、六本木の国立新美術館へ向かう為に九段下の駅を探そうとしたその時、目の前の大通りを挟んだ向こう側に書かれていた漢字四文字が目に飛び込んできた。

- 靖国神社 -

”あ、これがあの有名な靖国神社か。ここにあったのか。” 

正直なところ、この時点で僕の持ちえた知識は、国の為に命を落とされた方を奉った神社、という事と、外から見ていて恥ずかしくなる程コロコロ変わる日本の首相達が、参拝するしないでうやむやにしながらその日が過ぎるのを待つ神社、という事だけ。場所も知らなければ、”靖国”という漢字さえ、以前にネットニュースの振り仮名を目にしていなければ多分読むことすら出来なかったかも知れない程の幼稚なレベルだった。

急遽行き先を変更し、歩道橋を渡った。境内へ向けて歩き出すと直ぐに、目の前に現れた少し赤い錆びをまとった大きな鳥居に圧倒された。京都などにある木製の信仰深さを感じさせる鳥居ではなく、目の前のそれは、巨大で、真っ直ぐで、硬くて、威圧感があり堂々としているのだけれども、何にも属していない一匹狼の様な孤独さを感じた。



その鳥居を超えると、なぜかそこではフリーマーケットが開催されている。”ん?結構そういう感じなのか?” と思いながら拝殿へ向けてどんどん進んで行った。

靖国神社境内図

神門の横に設置された大手水舎のの横に書かれていた御由緒。


神門の上にとまっていた真っ白い鳩が象徴的だった。


こんな大きく立派な菊の御紋は初めて目にする。


拝殿は、立派だったが思ったよりも小さい印象を受けた。


神社へ一人で参拝するのは初めてだったので、賽銭を投げ入れ、書いてあった通りに二拝二拍手一拝を少々気恥ずかしくすら感じながら行った。

後にこの気持ちを後悔する事になる...



雨足が強くなってきた。傘を持っていなかったのでどうしようかと迷っていると、”大東亜戦争 開戦70年展” という看板が目に入り、雨宿りをしようと展示が行われている遊就館へ走り込んだ。
一階には、復元された零戦や錆び付いた大砲が展示されており、まず本物の零戦を目にするのは初めてだったので少々息を呑んだ。エスカレーターで二階へ上がると、映像室があったので静かに入り、空いている席に座った。上映されていたのは、日本がなぜ大東亜戦争で戦わなければならなかったのかという事に対する、日本側から見た、又、当時の思想に基づいたドキュメント。

前のスクリーンに映し出された映像が、持っていたカバンの上の小さな水溜りに反射していた・・・。


その後館内を歩き始めた。普通の博物館や美術館などと違い、歴史の順を追って当時の物や説明文などが展示されている為、非常に分かり易くよく出来ている。

遊就館リンク

展示物の中には、特攻隊員の物も含んだ数々の遺書があった。
どんなに頑張っても、読んでいると途中でぼやけてしまい、とてもまともに最後まで読めない...
当たり前だが、ガラスケースの中にある物は、歴史の教科書に載っていた写真ではなく、全て実物で、紛れも無い事実を語っていた。

家族に宛てた手紙も...自分の腹に刺した刀も...染み付いた血も...

今回一つ改めて思い知らされた事があった。それは、10代や20代の特攻隊員が、戦略が尽きた後、少しでも多くの被害を敵に与えようとしてただ単に大和魂を持って零戦に乗り、体当たりをした訳ではないという事。そこには、

ここでやられてしまえばばただの敗北。交渉の余地も無いままアメリカに自由に国を乗っ取られては日本民族は滅びてしまうだろう。自分達がここで命を掛けて抵抗する事により、日本民族は滅ぶ事無く、後世の日本人が必ず日本を再建してくれる。


あとは、まかせた。


という考えがあった事。


遊就館の展示の最後に、意見を残せるノートが置かれている場所がある。10歳の女の子が書いたコメントに目が留まった。

” 戦争で亡くなった人は、かわいそうだと思います。戦争は2度とやってはいけないと思います。”

自分達も子供の頃に教えられた一般的な教え。でも、自分の命と引き換えに、後世に日本民族の未来を託して亡くなった方々をどこか否定してしまう気がして、ノートを閉じながらこの単純な教えが本当に正しいのか疑問に思わざるを得なかった。


補足として、ここに一つの映像がある。





そして、これはアメリカから見た日本の特攻に関する映像の例。確か子供の頃、特攻は全て失敗し、何の成果も挙げれなかったと教えられたと思う。このビデオでアメリカ人将校が語っている事が本当ならば、僕が教わった事は完全に操作された情報だった。



それぞれの国が、それぞれの思想や利益に基づいて行われる ”戦争” において、何処の国が悪かったとか、誰が悪かったとかここで書くつもりは無いし、書ける知識も教養も僕には無い。感傷的になって走り書きをしている訳でもない。

20代の時から、一生懸命自分の理想を追い続けて来たつもりだから後悔はないが、あまり年齢が変わらない人達が亡くなった話を耳にする様になった中で、仮に明日不治の病に倒れたら、”何をする為に生まれて来たと思えるだろう?” と考える事が最近ある。今、自分は何をしているのだろう、と。

仕事に関して言えば、昔アメリカでプロジェクトを完成させた時に思った。
”ざまぁ見ろ。日本人の俺がアメリカに足跡を残してやったぜ。”

でも最近はそうは思わない。その土地の人達に、集う場所を提供出来、その町が繁栄する手助けを出来る事がこの仕事の醍醐味と思うから。デザインした場所に人が集い、将来そこが取り壊された後、次世代のデザイナー達がさらに良い物を作る為の踏み台にしてくれれば、少しは何か残せた感じがする。それが世界中のどこであれ。



ロサンゼルスのダウンタウンにあるリトル・トーキョーにJapanese American National Museum がある。そこには、戦争当時南カリフォルニアに住んでいた日本人が、強制収容所での生活を余儀なくされ、それまで築き上げてきた全てを失った記録などが展示されている。

”小、中、高の時の友達は、黒人だけだったよ。” と言っていた日系3世の知人。”なんでですか?”と尋ねると、”Only black people called me by name (黒人だけがちゃんと名前で呼んでくれたからね。)” と。  Jap ではなく。

彼は続けた、
”私の日系人の友人は、スピード違反して警察に止められたら、そのまま道路に引きずり出されてボコボコに殴られたよ。”

彼らは黙っていなかった。抗議をし、人権を勝ち取ってくれた。そのお陰で今こうして日本人はアメリカで普通に生活が出来ている。



靖国神社を後にしながら、色々な想いが交差した。

他国や他人に色々と気を使い、自分の意見をはっきりと述べる事を不得意とする、又は遠慮する日本人。そんな中、靖国神社で見た物全ては、独自の角度から堂々と日本の見解を主張していてとても誇り高く思えた。他の国はその国の見方で好き勝手言って来るのだから、日本も日本なりの見解を堂々と持っていても、何もおかしな事は無い。敗戦国だから仕方ない、とこれから100年先も言い続けるのならば別だが。

歴史教育にもとても疑問を感じた。ハニワとかから教えてくれなくて良いから、まず現代を習い、そしてそこを出発点とし、昭和、大正、明治・・・と昔に戻って行く様に教えてくれれば、もっと皆自分の立ち位置がはっきりと分かる。近代の外交関係や戦争に関することを、はっきりと日本の考え方で子供達に伝えればよい。ただし、その後、一人一人が大人になって色々な外国の人達と交わる中で、自分なりの意見を持てる様な環境を作ってあげる事も忘れてはならないと思う。


自分の性格や普段の生活から考えて、靖国神社で感じた事や、移民して来た日本人や日系人達が作ってくれたこの時代に、毎日感謝しながら生きる事は無理だろう。また、何かの団体に入って活動する事もしない。ただ、自分が生きて行く中で、個人的な糧になる物を見つけられた気がしたのと、現代の日本人のルーツをとても衝撃的に教えられた気がする。

確実に思い知らされたのは、歴史は過去の1ページで、開かなければ見えない物ではなく、今の自分の足元まで続く、長い絵巻物の一部だという事。そして、今自分がしている事が書かれたその巻物の続きを、今の子供達の足元にちゃんと転がしてからいなくならなければならない、という事。


何か、無理矢理にでもこの気持ちは、時々思い出さなければならない気がして、遺書が集約されたこの一冊を買っておいた。



2012年8月10日金曜日

昭和の建物

日本を訪れる度に、素敵な昭和の建物を目にする。

この前日本で見た幾つかを紹介。

まずは銀座にある、2007年に亡くなられた黒川紀章氏作の中銀カプセルタワー(竣工1972年)。一つ一つがカプセルルームになっている。お互いのブロックは実際には重なり合ってはいない。それぞれが孤立した形で、中心のコアからキャンティレバー(片持ち梁)になっている。シカゴで建築を勉強していた時にもたまに授業で取り上げられていたのを覚えている。建築的にも面白いが、アメリカ人には ”カプセルに住む” という考え方が衝撃的らしい。ただ、検索して画像を見る限り、中は未来的で快適にすら見える(Google 画像リンク)。ここはホテルではなく、集合住宅。ビジネス上のセカンドハウスなどとして利用される事がおおかったそう。老朽化やアスベストの問題などで、既に取り壊しが決まっているのが残念。




次は、千代田区の竹橋駅前にあるパレスサイドビルディング。毎日新聞社系列の、株式会社毎日ビルディングが運営している。設計は日建設計で、竣工は1966年。建物自体の重さを外壁で支えない、カーテンウォールシステム。こうする事により、採光量が増え、外観にも透明感が増すので建物が軽く見える。今ではよく目にする様になったが、基は1920年代にドイツのWalter Gropius (ウォルター・グロピアス)が推し進めたスタイル。


ちょっと詳細が見えにくいが、外壁に見える縦の線は雨どいになっており、上から落ちて来る水をそれぞれの階に受け渡して行く。入り口上部の大きなキャノピーは、傘の様にも見える。縦に伸びる線を主張する白い塔と、横に伸びる線を主張する黒い箱が、とても心地よいコントラストをかもし出している。



次は、すぐ傍の北の丸公園内にある東京国立近代美術館(1952年竣工)。日本で最初の国立美術館。設計は千代田区の帝国劇場もデザインした谷口吉郎氏。窓の少ない、コンクリート造りの重々しい建物。


土曜日に行ったのだか、休館日で中に入れず・・・



この設計者のご子息が、上野の法隆寺宝物館(下の写真)やニューヨーク近代美術館新館を設計された、あの有名な谷口吉生氏。装飾ではなく、線や面のバランスだけで作り上げられた建物を見る度、設計者の感性が伺えてため息が出る。



最後に、今回泊まったホテルから見えた昭和の象徴、1958年竣工の東京タワー。正式名称は日本電波塔。設計は構造学者の内藤多仲氏と日建設計。

1961年頃の東京タワー

生まれは東京だが、育ったのは横浜なので、子供の頃は 東京タワーがある所=東京 というイメージがとてもあった気がする。素直に上に伸びるシンプルで綺麗な形状。





夕暮れの東京タワー 


富士山と東京タワー 


月と東京タワー


青い東京タワー


何でも近代化して、日本ではなくても見られる様なビルが増えて行く中、昭和の香りが残る建造物は見ていてホッとする。それは多分、今よく目にする奇抜で主張が強すぎるビルや、ガラスで覆われた無機質なビルとは違い、そこに佇み、静かに落ち着いた威厳をかもし出しているからだろう。

あとは、ただの僕の年齢的な理由・・・17歳まで昭和だったからな。



最後に、品川で行った魚専門の居酒屋で、可愛いサーバーの子が出してくれた笑顔のビールとお通しの魚。


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